シューリヒト掲示板発言 750−701(2003年)


ロンドン交響楽団のハフナー 投稿者:楽古堂  投稿日:10月13日(月)12時19分11秒
kiyo様へ。同時代人の感想は、うれしいもの。同じ演奏が現実感をともなって、目の前に立ち上がってくるようです。「型にハマらず、すばらしいバランス」同感。「絶妙なテンポ感」とともに。シューリヒトの『魔笛』は、レコードを手に入れた夢を見たことがあります。箱の画が、なぜかカール・シュミット=ロットルフであったことまで、リアルに思い出します。(笑)『コシ・ファン・トゥッテ』も、素敵なのでは?

続々・STRADIVARIUSのシューリヒト。 投稿者:KURO  投稿日:10月12日(日)20時57分51秒

なべさまへ。
楽古堂さまへの返信でも書きましたとおり、確かにこのレーベルのCDは入手しにくいようです。
しかも現在では歴史的録音のジャンルからは撤退してバロック音楽へと方向転換しているとのこと。となると本当に在庫限りということなのでしょうね。(購入されるなら早い方が確実かもしれません。)
私も以前、他のマイナー・レーベルで何度も苦渋を舐めさせられて来ていますので、正直言って今回も購入にはちょっと躊躇してました。でも、シューリヒトの演奏を少しでも多く聴きたいという欲求は抗し難く、結局注文してしまったわけです。ですから音質にはさほど期待してなくて、ただ演奏が素晴らしければそれで満足だったのです。まずマルケヴィッチの第1番を聴きました。確かに1967年の年代に相応した録音でしたが、思ったよりは悪くない音質だと感じました。問題は次のシューリヒトの「さすらう若人の歌」。1962年ということで先のマルケヴィッチの録音より5年前。これはもっと音が悪いということか・・・と思っていたら逆に素晴らしい音質だったのでビックリしたわけです。ですから、一部すでに持ている演奏を含んだCDを(シューリヒトのみ聴くために)再度購入する価値があるかどうかは別として、私個人としては、聴く機会があるのならばぜひ皆さんにも聴いて欲しいとは思います。もちろん、聴いてみて良かったと思うか、そうでないかは人によって感じ方も違うので絶対とまでは申しませんが。こんなところで構いませんか?
編集済

続・STRADIVARIUSのシューリヒト。 投稿者:KURO  投稿日:10月12日(日)20時22分09秒
楽古堂さまへ。
「さすらう若人の歌」。ほんとうにシューリヒトのマーラーはドロドロしたものやケバケバしいところのない清潔感溢れる演奏だと思います。だからこそ私たちの心にストレートに伝わってくるということなのでしょうか。とにかく今回のCD、素晴らしい演奏なんです。(初々しい雰囲気なんか特によく出てると思います。それに歌手をさりげなくサポートしている感じも好印象。)前にも書きましたが、個人的にマーラーの曲っていうのは好みではないのですが、こういう演奏を聴かされてしまうと案外マーラーも悪くないなんて思ってしまうので弱ってしまいます。それで他の指揮者の演奏も聴く気になって、結局また失望したりするわけですから・・・シューリヒトという指揮者は本当に罪作りなマエストロですね。(笑)
ただ、お尋ねのHMVでの購入は困難かと思われます。私もHMVはよく利用させてもらってますが、メジャー・レーベルには強いがマイナー・レーベルに弱いところが難点です。その意味ではタワー・レコードあたりの方が逆にVIRTUOSOといった急に台頭してきたレーベルには比較的強そうなので一時期、使い分けて購入してました。ただ、タワー・レコードにも欠点が多く(HMVほど説明が詳しくない点など)そこで最近はアリアCDを活用してメジャーでないレーベルや一般のCD店では扱っていないものを探してもらったりしています。ここの特徴はとにかく懇切丁寧なCD解説や情報の提供といったところでしょうか(ただし情報量が少し多すぎる難点も有りますが)。それとアリアCD代表の方が実は熱心なシューリヒト・ファンであることも重要なポイント。おかげで随分隠れた名盤(シューリヒト以外も含めて)をこれまで随分紹介してもらっています。もちろんアリアCDを特にお薦めするつもりはありませんが、もともとSTRADIVARIUSレーベルのCDは入手しにくいということなので確実に入手できるルートからの購入がよいのではないでしょうか。
編集済

STRADIVARIUSのシューリヒト 投稿者:なべ  投稿日:10月12日(日)18時27分46秒
KUROさま
 カップリングのマルケヴィッチを持っているので、今のところ購入を躊躇しています。
 「さすらう若人の歌」のみでも購入の価値はあるでしょうか?
 私もアリアCDは毎回利用しているのですが、このCDは購入に踏み切れません。
 と言っても、STRADIVARIUSでは入手に時間がかかるし、在庫の有無も怪しいものですが…

kiyoさま
 この類のエピソードを集めて、一覧表にしたいものですね。
 並べてみると、なかなか壮観ではないでしょうか。

さすらう若人の歌 投稿者:楽古堂  投稿日:10月12日(日)18時19分02秒
KURO様へ。シューリヒトのマーラーは、ユダヤの熱狂からは距離を置き、ドイツのロマン主義の時代の人間として、理解できる部分だけを音化したような清潔な解釈。初期の歌曲集には、最適の立脚点。第2曲「今朝、野辺を歩けば」の小鳥の歌。第4曲「恋人の青い瞳に」のまどろみ。どのように表現しているのでしょうか?楽しみです。HMVにも、入荷するでしょうか?

STRADIVARIUSレーベル。 投稿者:KURO  投稿日:10月11日(土)19時39分03秒
みなさん、こんにちは。
アリアCDから入手した題名レーベルでシューリヒト/フランス国立o.による「さすらう若人の歌」を聴きました。(カップリングは同じマーラーの交響曲第1番で指揮は鬼才マルケヴィッチ)
シューリヒトを愛するみなさんのこと、すでにこの演奏は熟知しておられると思いますけれども、どうもマイナー・レーベルによるCDというのは当たり外れが大きくてこれまで敬遠しがちでした。(最近はマイナー・レーベルも向上してますが)しかし、今回のCDに関してはなかなかのものだったのでビックリしています。とても瑞々しい音質なのです。やはり実際に聴いてみないことには判らないということなのでしょうか。まあ、それがまた楽しいといえばいえるのですが。

RE:パウル・ヴィトゲンシュタイン 投稿者:toshiharu  投稿日:10月 9日(木)16時47分19秒
kiyoさま

素晴らしい話ですね。早速本を探してみました。『ヴィトゲンシュタインの甥』という本でした。なんか『レコード芸術』誌に連載された時には、評判を呼んだ、と言うことでした。

残念なことに、今は絶版らしいです。

ハフナー交響曲はいくつか録音がありますが、それぞれに素晴らしいですね。

そのハフナーについて 投稿者:kiyo  投稿日:10月 9日(木)15時02分25秒
ちなみに時期から類推してもこの公演は1964年のLSOとの公演でしょう。そのときのものだとすれば録音が現存しています。残念ながらモノラルなのですがハフナーは実に玲瓏な研き上げられた完璧無類のフォルムで貫かれており前述の二人の感動もさぞやと思わせるところがあります。かといって型にハマらず、すばらしいバランスを持っています。
僕のごく個人的な好みからすれば実はその前年のVPOとの定期公演のライブを愛しています。これは好みを分かつところなのでしょうがBrucknerの第5の前プロとして置かれたこの演奏は歌と即興性に満ちあふれていて何回も聴くものではありませんがすばらしいものです。国連コンサートのようなみなぎったような感じがなく僕はかえって好みます。
そういえばこの晩年の二つの演奏では彼には珍しく第2楽章が反復されています。しかし形骸的なものではなく必然性を持って聞こえます。もう一度歌いたいというやむにやまれぬ気持ちで歌いこんだような。微妙に二回の表情も違います。ハフナーは彼の軌跡を考える上で欠かせない交響曲です。ここに実験的なツッコミにあふれたフランス国立とのものなんかがあったらさぞかし面白いのですが出てこないかしら。

パウル・ヴィトゲンシュタイン 投稿者:kiyo 投稿日:10月 9日(木)15時00分00秒
先日の書き込みに対していろいろの御意見ありがとうございました。まぁ確かにSchurichtを愛していない人は論外としても、愛している人の中にもいろんなとらえ方があるようです。
これに関連してひとつお読みになったことのない方のために本を紹介しておきます。ウィーンの劇作家のトーマス・ベルンハルトが書いたパウル・ヴィトゲンシュタインの回想録で音樂の友社から邦訳が出ていたと思います。ここに登場するパウルとはかの有名な哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの甥にあたる人物です。二人の出会いのとき最も中心的な話題になっていたのが前日にムジークフェラインで聴いたSchurichtの指揮するロンドンフィル(実際にはロンドン交響楽団と思います)のMozart ハフナー交響曲だったのです。ベルンハルトはこれ以上の音楽的体験はこれまでしたことがないというほどと絶賛しています。パウルはその数学的なまでの対称性の美しさと完璧さを賞賛しています。その他に中庭でいっしょにラインを聴いてそのすばらしさに感動したエピソードなんかも出てきます。
ベルンハルトはSchurichtとカラヤンを絶賛しており‘私はSchuricchtを心から愛していたがカラヤンにはいつも小さい頃から現場で接して感服していた’と述べています。何か気持ちはわかるような気もします。
対照的にパウルはカラヤンをとことん毛嫌いしています。そもそも彼は典型的なオペラ人でありオペラ的思考の持ち主であった。裕福な貴族の生まれの彼はその晩年に体を悪くしてからでさえオペラ座の立見席の一番前に最初から最後まで立ちつづけ彼の先にも後にもないと言われるすさまじいブラボーやブーでその公演の成否を決定付けてしまっていたという(カラヤンには通用しなかったようですが・・・)。そんな彼がSchurichtを熱愛していたということはオペラというものを考えるにしてもある重要な意味を含んでいるのではないかと思うのです。ベームなんかでワーグナーをきいたら二日酔いになっちまうよとクレンペラーを懐かしんで話してもいたようです。
このようにオペラでさえもかなりスタイルの好みをわかつものですが要するに交響曲を聴くときと同じように一概には扱えないものなのだと思います。僕はSchurichtにMozartのオペラだけでも指揮してほしかったと心から思います。

カンプラのレクイエム。 投稿者:KURO  投稿日:10月 8日(水)20時09分07秒
学生の頃はあまり聴かなかったバロック音楽。最近はどちらかと言えばこのジャンルに傾倒しています。エラートから「アニヴァーサリー50」というシリーズが発売されてますが、その中で今回気に入ったのが18世紀にフランスで活躍したカンプラという作曲家が作ったレクイエム。(演奏はルイ・フレモー指揮パイヤール室内管弦楽団他。)なんとも素朴でしかも透明感ある美しい響き。今まで耳にしたことのない音楽に出会える喜びはまた格別なものがあります。それにしてもバロックの世界は奥が深い!

モーツァルト レクイエム 投稿者:furt  投稿日:10月 6日(月)11時23分09秒
初めて投稿させていただきます。アルヒフォンから以前でていた題名のCDを血眼(笑)で探しています。ショップでみかけた(当方 兵庫在住)など、情報がありましたら、メールをいただけないでしょうか?

訂正について 投稿者:toshiharu  投稿日:10月 5日(日)19時30分00秒

各位

楽古堂さまのご依頼により、「ヴェルディの『レクイエム』・1」を削除し、代わりに「ヴェルディの『レクイエム』・1訂正版」を掲載しました。発言の順番が前後しますが、ご了承ください。

ヴェルディの『レクイエム』・1訂正版 投稿者:楽古堂代理toshiharu  投稿日:10月 5日(日)19時27分04秒
ついに聞きました。(ARISCO-ARI001)。1939年11月2日。アムステルダムでのコンセルトヘボウとのライヴ。10月5日の『大地の歌』事件とも呼べるあの日から、一ヵ月も経っていません。9月1日からのドイツ軍のポーランド侵攻による、死者を鎮魂するための音楽会でしょう。それをイタリアの作曲家の作品で、東プロイセン人が指揮するところに、当時のアムステルダムの置かれていた困難な状況が、伝わってきます。この翌年の5月10日には、オランダもドイツ軍の猛攻にさらされます。シューリヒトは、あくまで平常心を保って演奏をしています。

編集済

暦の音楽 投稿者:楽古堂  投稿日:10月 5日(日)17時01分57秒
皆様へ。『レクイエム』のような音楽は実生活では、あまり聞く機会がないと思います。小生は家族、友人、知人、作家、作曲家等々の亡くなった日に聞きます。たとえば、10月11日はブルックナーの命日です。自分の誕生日でもあります。例年、シューリヒトのブルックナーの交響曲第9番の第3楽章に耳傾けることにしています。小生は無宗教です。キリスト者の方が、教会暦に従った生活をされているように、音楽と日々の体験の双方に、めりはりがつくような気がします。

ヴェルディの『レクイエム』訂正二ヶ所 投稿者:楽古堂  投稿日:10月 5日(日)12時03分46秒
Toshiharu様へ。ワープロで、ネットしている限界のためか、投稿の修正ができません。以下の二点を、お暇な時に訂正しておいてください。10月2日 → 10月5日。アムステルエダム → アムステルダム。お手数ですが、よろしくお願い申し上げます。

ヴェルディの『レクイエム』・3 投稿者:楽古堂  投稿日:10月 5日(日)11時52分18秒
このCDには、ボーナス・トラックに、ベームの同曲の1945年のライヴの抜粋が入っています。ウィーン国立場劇場管弦楽団と合唱団ということもあって、より「オペラ的」です。シューリヒトは、トランペットとティンパニによって「演奏会的」な効果を添えています。「妙なる喇叭がその響きもて/もろもろの墓の上に鳴り渡り/全ての人々を玉座の前に進めん」。しかし、本質は「ミサ的」だと思います。

ヴェルディの『レクイエム』・2 投稿者:楽古堂  投稿日:10月 5日(日)11時43分32秒
たしかに、この曲はフォン・ビューローが、ヴェルディの「新しいオペラ」と呼んだように、イタリアの熱気と興奮を伴って、「オペラ的」に演奏されることがありえます。しかし、シューリヒトの解釈は、その対極にあります。北ドイツの冷気と沈欝な平和への祈りの音楽です。ソリストも合唱団も、最初はシューリヒトの意図が理解できません。「オペラ的」に演奏しています。次第に今日の「死者のためのミサ」に、積極的に参加していきます。聴衆は祈りの姿勢をとっていることでしょう。

人それぞれとはいえ 投稿者:信一  投稿日:10月 4日(土)13時13分17秒
みなさんこんにちは
ほとんど゛誹謗”というに等しい感想が公になっていることを知り悲しい気持ちになりました。
>海外の批評家のブルックナー第5の感想?
最終的な結果をどう判断するかは好みの問題ですが、あの大胆なアゴーギグを伴う表現を聞いて、指揮者がオーケストラにドライブされているというような感想を持つのは、演奏が生まれるプロセスについておよそ無知であるとしか言いようがありません。おそらくこの人は一流二流の判断を自分の音楽の好みの範疇でしているのでしょう。
指揮者として一流か二流かは゛統率力゛にあり、それを証明するのは、100人からなるオーケストラからでてきた”個性の反映あるいは指揮者の意図”でしょう。それが、指揮者の力量であり,存在意義ではないでしょうか?
この批評家は、自分の考える”楽曲解釈の妥当性”をあてはめて、一流二流を論じたのでしょうが、およそ的外れな話です。
ベームが晩年ロンドン響と録音した”悲愴”は、楽譜から離れた解釈ではないにもかかわらずおよそ”ずれて”聞こえます。最近の指揮者ならレコード会社からお呼びの無い人でもはるかにチャイコらしく演奏するでしょう。”だからベームは二流なのだ”といったら滑稽では無いでしょうか?”だからこそ一流の指揮者だった”といったほうがおよそ据わりがいい。僕がシューリヒトを超一流と捉えているのは、解釈の全責任が指揮者にあることを強く意識させられるからであって、だれそれの作曲家の作品がだれそれらしく聞こえるからではありません。
(個人的には一流二流という言葉自体、音楽の聞き手にとってナンセンスな物と捉えていますが…)

>オペラ的?
この批評は、”高額な演奏会を初見で指揮する”ようなものですね。準備不足です。

>あざとい
少ないレコードだけで彼の演奏を聴いていた時代、不思議に思っていたのはブラームスの第3(バーデン)とライン(SDR)。ブラームスのフィナーレで突然流れをせき止めてモットーを強調するやり方は、飄々淡白一気呵成とは相容れず、なぜ?と思ったものです。また、パリ音楽院で繊細なテンポ操作と見事な推進力を両立した彼が、SDR盤のラインではダサいアゴーギク(特にフィナーレ)によって各声部の入りにこだわるのを見て、やはり???と思ったものです。
今大量のライブが聴ける時代になって、そうした部分的に”意図”的な解釈を持つ演奏が少なからずあることがはっきりしましたが、それは彼の演奏の一部分に過ぎないでしょう。ほかに聞くべき所はいっぱいあるのですから、そこだけ取り出して”あざとい”というのは…
彼にとっては、音楽を聴く機会が少なかった時代での”配慮”であり、”啓蒙”でもあったのでしょう。こうした?な部分の意味を考えるのも、僕にとってはシューリヒトを聞く楽しみのひとつです。(蛇足ですが、これは彼の”細部にちりばめられたインスピレーションによる変更”のことを言っているのではありません。どこが違うのといわれると困ってしまいますが…)

それにしても、乱暴な感想がシューリヒトに限って出てくるのはなぜなんだろう。宇野氏が言うならわかります。深い愛情の裏返しとして出てきた言葉でしょうから…。
一度でもシューリヒトに洗礼されたらまず出てこない感想です。
編集済

夭折のピアニスト。 投稿者:KURO  投稿日:10月 4日(土)11時48分30秒
皆さん、こんにちは。
ディノ・チアーニのベートヴェン・ソナタ全集(Dynamicレーベル)が発売されたようですね。このピアニストの存在についてはごく最近知った程度なのですが、幾つか既発のCDによってその才能を高く評価させられました。(私にとっては同じく若くして亡くなったジュリアス・カッチェン以来の衝撃を受けました。)とりわけ華麗でもなければ緻密なという感じでもないのですが、どこか惹かれるものがあります。今回のベートーヴェンはまだ未聴なのですが大いに期待しているところです。まだまだ、世の中には埋もれている(言葉は不適切かもしれませんが)演奏家がたくさん存在しているのですね。

続・商売としての批評。 投稿者:KURO  投稿日:10月 2日(木)21時13分21秒
Kiyoさまへ。はじめまして。いろいろな方からすでに意見が出されているので今さら私ごときが書き込みをすることもないのですが。最近は様々な音楽評論家がかなり強烈な批評を展開していて、それが結構受けているように感じます。許氏もその一人なのでしょう。(著作そのものは読んだことはないですが、雑誌とかなにかでよく目にします。)批評というのは難しいものだと思います。特に「音楽」の世界では。だからこそ影響力も大きなものがあるとも言えるでしょう。ただ、以前はある程度「節度」を保った方が多かったように思います。「節度」という言葉がまた誤解を招くかもしれませんが、けしてぬるま湯的という意味ではなくて長年の経験を生かした絶対的な自信を秘めた風格のある批評とでも申しましょうか。ですから、そういったものに値しない(価値の低いと思われる)批評に対しては、楽古堂さまもおっしゃられているように真剣に耳を傾ける必要はないのではないでしょうか。

RE:はじめまして 投稿者:toshiharu  投稿日:10月 2日(木)10時24分52秒
kiyo様

はじめまして。

シューリヒトで特徴的なのは、細かな部分に彼独自のアイデア現れることです。パリ音楽院管弦楽団と入れたベートーヴェンの第6交響曲では、終楽章の冒頭部分のホルンの動きが独特です。別の録音ではこういう事をやってはいないと思います。シューリヒトならではのアイデアであり、印象的な部分だと思っています。

こういう明らかな変更を時々するのがシューリヒトの特徴でもあると思います。もちろん、曲の姿を壊さないようにしています。むしろ、よりよく曲の姿を伝えるための工夫と言ってもいいかと思います。だからこそ、効果的なのだと思います。

このあたりの工夫の仕方が、オペラの造形法と似ていなくもない、と言うことかと思います。

楽曲をよく知っていて、かつシューリヒトの演奏を知っていて、いくつかの同曲録音を聞き比べてみると、細かな部分での違いが聞き取れたりします。そして、このあたりのことが、シューリヒトの魅力であったりします。それだからこそ、長い間聞き続けてきた、と言えそうです。

商売としての批評 投稿者:楽古堂  投稿日:10月 2日(木)08時55分32秒

それから、音楽批評といっても商売です。小生は縁があって、ある場所にマンガ・アニメ批評を書かせて頂いています。正正堂堂とした論陣を先輩がはられている時に、後進の批評者は、それとは違うことを書かなければなりません。私はある雑誌の編集者から直接に、もっと極論を書いて面白くしてくれと注文されたことがあります。そこには、二度と書いていません。許氏という方にも、いろいろと苦労があるのだと思います。

典型的なオペラ指揮者 投稿者:楽古堂  投稿日:10月 2日(木)08時47分40秒
kiyo様へ。はじめまして。シューリヒトは『急ぐよりも充実させよ』というアメリカ演奏旅行の直前に生涯を回想した文章の中で、「私は全部で四年間しか劇場に関係していません。しかし、今考えるとこうして劇場生活から離れたのは残念なことだと思っています。」と語っていますね。許氏という方の言葉は無内容で、あまり真剣に取り上げるべきではないのではないでしょうか?こちらの皆様が言われているのは、局所的効果優先ということを離れて、シューリヒトにはオペラ的な効果を上げる演奏もあるということだけだと思います。

RE:はじめまして 投稿者:なべ  投稿日:10月 1日(水)19時54分46秒
kiyoさんはじめまして
まず、私の書き込みから不快の念を抱かれたのであれば、お詫びいたします。

>どうしてschurichtがオペラ的な指揮者だなんてことを言う人がいるんだろうか
>僕はschurichtはそういうところからは最も対極にいる指揮者だと考えているんです
基本的にはその通りかと思います。
しかし、シューリヒトでもライブではねちっこい演奏をする場合もなきしにしもあらずです
(宇野氏がシューリヒトですらライブでは「あざとい」表現をすると評していました)。
そういった一面もシューリヒトの一部ですから、もしこうした面を重視して許氏が
「これこそシューリヒトの本質」と主張された場合は、水掛け論になってしまいます。
私個人としては、シューリヒト最良の特質は見通しの良さであると考えています。

>評論のとき否定を前面に出すのは常にたやすいことです。
>そして歯切れがよく一見鋭く見えます。
>でも実質ではひたむきな肯定の愛情には及びません。
宇野さんの直球に愛情を表現する評論スタイルへのアンチテーゼとしての一面が、
許氏の評論スタイルがあると思います。
たしかに、ああいう「他を貶める事で目的を果たす」という方法は
あまり誉められたものではないく、好まれない方も多いでしょう。
一方で刺激的である訳で、「刺激的」な事が大きな価値と見なされる昨今には
それだけで注目されるという側面もあるのでしょう。

ただし、私は、許氏の評論から
「従来の微温・温室的なややもすれば馴れ合いも感じさせる評論と比べて、
そうしたものを全て否定したところに新しいスタイルを確立しようとする野心」
も感じています。そういった意味で充分存在価値はあるのではないでしょうか
(現在は試行錯誤の段階で、色々おっしゃる様な問題も生じていますが)。

>VPOとのBrucknerの5番が発売されたときに、
>とある海外の音楽情報誌がある評論家のレヴューを掲載して
>’二流の指揮者がVPOを得て成し遂げた名演’
>などというとんでもないことを書いていました
レコ芸の記事ですね。私も取ってあります(今探しても見つかりませんでしたが)。
当時は「何も分からない奴だ」と、反発を覚えた事を覚えています。
とはいえ、こうした事は人それぞれの好みとも関係してきますね。
編集済

はじめまして 投稿者:kiyo  投稿日:10月 1日(水)12時52分14秒
こんにちは。初めて書き込みいたします。ずいぶん前から修理人さんのHPとこのBBSは読ませていただいていました。特にHPはすごく充実しているのではじめ見たときはびっくりしました。で本題に入りますが今回あえて書き込みをする気になったのはどうしてschurichtがオペラ的な指揮者だなんてことを言う人がいるんだろうかということ。要するに局所的な効果を優先して全体の構造は二の次になっているという否定的な意味で言っている訳でしょう?(オペラに対してもまったく愛情がないことを露呈している)。僕はschurichtはそういうところからは最も対極にいる指揮者だと考えているんですけど・・・。皆さんがそれで少し納得されているのがまた良く分からない。くだらない局所的な強弱とか緩急の効果にぐらぐらと体を揺さぶられるようなことがない本当に絶妙なテンポ設定。これは本当にschurichtに独特の技術だと思います。だから局所をどうこう議論しにくいし評論もしにくい。同じ演奏時間であってもあの間合いに引き込まれてしまうとほかの演奏が聴けなくなってしまって困ってしまうのですが、それぐらい微妙な違いで天と地ほど差がある絶妙なものです。もし局所的な効果を聞くんだったら今の新しい録音のほうが断然いいに決まっています。なぜに貧弱な音の中にあれだけの感動を引き起こすことができるのか。許さんの書くものはそれこそ逆説的ですがオペラ的な効果に満ちているように思います。評論のとき否定を前面に出すのは常にたやすいことです。そして歯切れがよく一見鋭く見えます。でも実質ではひたむきな肯定の愛情には及びません。VPOとのBrucknerの5番が発売されたときに、とある海外の音楽情報誌がある評論家のレヴューを掲載して’二流の指揮者がVPOを得て成し遂げた名演’などというとんでもないことを書いていましたがそれに匹敵するぐらい不快を感じます。

RE:ヘンスラー 投稿者:toshiharu  投稿日: 9月30日(火)15時20分33秒
なべ様

>おそらくシューリヒトの未発表音源はまだ山の様に存在するはずですから、
>セットの十や二十、簡単に作れるでしょう。

そうですね。ただ、既蔵のものとそうでないものとの判別がつかない場合があったりするので、不安だったりします。セットものの欠点は、この辺かなと思います。

セットもののいい点は、解説などが充実している場合があるので、新しいことを知ったりする機会があったりします。そういう点では、セットものがいいですね。


返信感謝:ベームとカイルベルト 投稿者:楽古堂  投稿日: 9月30日(火)11時01分42秒
KURO様・なべ様へ。そうですか。やはり、カイルベルトのブルックナー交響曲第6番は出ていたのですね。ご教示、ありがとうございました。たしかに内容的にも充実したもの。どっしりとした低音の上に、中音を乗せた石作りの建築。重厚な演奏。1960年代までのベームも「筋肉質」」と形容される贅肉の少ない演奏でした。ブラームス交響曲第2番。ベームとカイルベルトに、ベルリン・フィルを振った、質実剛健な演奏があります。小生、愛聴。

RE:ヘンスラー 投稿者:なべ  投稿日: 9月30日(火)10時14分15秒
>まとめてどっと出るより定期的に出るほうがいいんですけど
確かに「聴く」という行為だけを考えると、この方が丁寧に聴けますよね。
ただし、販売方法という点からすれば、
 セットで売った方が一枚当たりの単価が非常に安く売れる→
 安いのでお客も喜んで多くの人が買ってくれる→
 実績が出来て次の企画に結びつく
という好循環が予想されます。
おそらくシューリヒトの未発表音源はまだ山の様に存在するはずですから、
セットの十や二十、簡単に作れるでしょう。
期待して待ちたいと思っています。

RE:セルなど 投稿者:なべ  投稿日: 9月30日(火)10時08分42秒
私のフルネ体験は実演からです。その日、コンサートの第一曲目でやったラロ「イスの王様」序曲を聴いた時には、生まれて初めて演奏会で背筋が凍る体験をしたモノです。今のフルネはそんなスタイルの演奏はもうしませんが、それでも当時とは異なる魅力を感じます(さすがに日によっては間延びを感じる時もありますが)。コルボは別にしても、クリュイタンスは少々色彩感を強調しすぎるきらいがあって、それがどうも私の好みではないというか…。他にフランス系で私の好みといえば、ポール・パレーがいます。が、同じ元気の良い演奏でも、ミュンシュのモノは体が受け付けません。

>セル/クリーヴランドのコンビ…関係が密になると演奏も手堅くなるというか
>セルにしてもベルリン・フィルやコンセルトヘボウとの共演では…名演を作り出している
 確かにそういう面もあると思うのですが、私はそういう違いはスタジオとライブの違いという要素も大きいのではないかと思っていました。というのは、同じクリーブランド・オーケストラでも驚くほど暴れる事があります(エルミタージュから出ているルガノライブなど)。一方でウィーンフィルと組んだベートーベンでは豪放であったにも関わらず(オルフェオからでているエグモント序曲)、スタジオで模範的に整然とした演奏をする事もあります(ロンドンから出ているエグモント全曲)。とはいえ、オーケストラによってセルの異なる美点が表面化するというのも確かでしょう(この点は仰る通りだと思います)。フルトベングラーでは、あまりこうした違いが出てこずに、どこでも指揮者のカラー一色に近い状態になってしまう感じがしますが。
 かつてマリア・カラスが「セル程度の指揮者が一流と言われる世の中とは…」という内容の発言をしていましたが、私はセルの理想がクリーブランドによって十全に表現されていたとは考えていません。KUROさんの仰る通り、彼の良い演奏はヨーロッパのオケとのモノが多いと感じています。とはいえ、資金の供給なども充分とは言えないクリーブランドという地で、ヨーロッパの美点とアメリカの長所を組み合わせたオーケストラを作ろうとした彼の野望は、充分意味のあったモノだと思っています(今となってはムラヴィンスキー・レニングラードと比較して少々弱い感じもいたしますが…)。
編集済

ヘンスラー 投稿者:toshiharu  投稿日: 9月30日(火)09時53分56秒
8月に話題になった、ヘンスラーのCDはまだ出ないんでしょうね。ちょっと楽しみにしていたんですけど。

コンサートホール盤の発売も延期に次ぐ延期でしたけど、こっちもそうなるんでしょうか。まとめてどっと出るより定期的に出るほうがいいんですけど、そうも行かないんだろうなぁ、、、

フランス派の巨匠ジャン・フルネ 投稿者:KURO  投稿日: 9月29日(月)13時19分55秒
なべ様へ
フルネは私も好きな指揮者の一人です。一言でいうならばフランス近代音楽を誰よりも上手に伝えることのできる巨匠ということになるのでしょうか。(うまい表現ができないのがもどかしいです)そうですか、そのフルネももう90歳なのですね。もし今回、来日が実現すればこれが最後となるかもしれませんね。私は残念ながらライブを聴きに行ったことはないのですが、CDでは早くから耳にしておりました。ベルギーの名ヴァイオリニスト:グリュミオーが大変に好きだったものですから、若い頃片っ端から聴きまくっていた時期、バックでフルネが指揮している演奏(確かサン=サーンスかショーソンだったと思います)に出会い、それがフルネの存在を知るきっかけであったと記憶しています。彼の演奏ではやはりラムルー管弦楽団とのフォーレ「レクイエム」が私としては気に入ってます。(クリュイタンスやコルボもよいですけれど、やはりフルネの演奏にとどめをさすのでは)最近ではDENONから再発されたオランダ放送とのショーソン/交響曲などでしょうか。いずれにせよ、フランス的な高貴に満ちた叙情性溢れる演奏ができる貴重な存在であると同時に(なべ様も言われているように)職人気質の最後のマエストロなのでしょうね。
ところで、ベームが他のオケとの共演で魅力を発揮すると書きましたが、これは普段のベームには見られない別な面を見ることができるという意味でして、けっしてウィーン・フィルとのコンビがつまらないという意味ではありません。ただ、セル/クリーヴランドのコンビでもいえることですが、なんだか関係が密になると演奏も手堅くなるというか・・・ですから、セルにしてもベルリン・フィルやコンセルトヘボウとの共演では思いっきりオケを鳴らして名演を作り出しているように思います。(ちなみに、今、HMVのホームページを覗いたら、さっそくベームのライブ録音の特集記事が掲載されてるようです。)

RE:ベームとシューリヒト 投稿者:toshiharu  投稿日: 9月29日(月)09時38分21秒

なべ様

まぁ、オペラのキャリアの少なかったシューリヒトを「典型的なオペラ指揮者」とやると、ちょっとびっくりします。読んでいて面白いのは確かですけど、それだけのことなんでしょうね。

RE:再:オルフェオとベーム 投稿者:なべ  投稿日: 9月29日(月)09時03分55秒
>(なべ様ほどには)ベームを聴いてはいない
買いかぶりです…
「かなり買った」というのは、分からないなりに我慢して買い続けたという程度の意味で
実際の枚数にするとレコード・CDあわせて30枚もありません。

>一般的にベームと言えばウィーン・フィルとセットのように扱われがちのようですが、
>個人的にはむしろそれ以外のオケとの演奏に魅力を感じています
全く盲点でした。まずは、お勧めのチェコフィルとの演奏を手に入れたいと思います。

11月にチェコフィルが来日しますが、その際の指揮者であるジャン・フルネ(90歳)が実際に来日できるのかどうかで情報が交錯しており、かなり不安を覚えています。フルネは私が大学に入って以降、ほぼ欠かさず聞いている指揮者です。年が年ですので、いつも「これで最後かも知れない」と覚悟はしているのですが。因みにシューリヒトはフルネを「フランス人指揮者の中で最もよくドイツ音楽を指揮する」と誉めて、フルネはこれをいまだに非常な誇りとしているそうです。
 最近はアンゲルブレシュト(フランス)・シューリヒト(ドイツ)型の職人的なレベルの高い指揮者が見あたらないですが、フルネなどはその最後の人かも知れません。それと、単に才能があるというだけではなく、書き込み楽譜や口伝によって過去の演奏家の解釈(ロマン派以降であれば作曲者の解釈も)を継承する姿勢も重要だと思います。フルネの世代の指揮者は、「ラベルはボレロを指揮する時…」・「ドビュッシーの演奏は…」などの一つ間違えると蘊蓄に過ぎなくなる記憶を効果的に利用しています。先日も図書館で短大の紀要を見ていたら、「ムラヴィンスキー所蔵譜に見るショスタコービチの意図」みたいな研究があって少々驚きましたが、こうした視点は大切でしょう。
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再:オルフェオとベーム 投稿者:KURO  投稿日: 9月28日(日)22時58分59秒
なべ様へ。私もベームから遠退いた時期があります。ウィーン・フィルとの来日の頃はかなりの人気を誇っていたようですが、かえってそれに反発があったのかもしれません。(それだけ当時は自分も若かったということなのでしょう。)それが再び見直すきっかけとなったのは、大学時代に友人の家で耳にしたモーツァルトのレクイエムからです。それもレコードを録音したカセット・テープなのですから今から思えば笑ってしまいますが。もちろん年齢的なものも関係するものなのかもしれません。音楽の本質を多少でも理解するにはやはりある程度の時の経過が必要ということなのでしょうか。お勧めのCDと言われても(なべ様ほどには)ベームを聴いてはいないと思うので、最近購入したものの中であえて探せば、ANDANTEレーベルのロンドン交響楽団とのライブあたりでしょうか(誰もが認めているようにベームの演奏はライブの方が良いように感じます。ただしその場合、高音質なのが必須の条件ですが。その点では合格しているCDだと思います。)つい先ごろ発売された「20世紀の偉大な指揮者たち」のシリーズにおけるベームも評判は上々のようです。一般的にベームと言えばウィーン・フィルとセットのように扱われがちのようですが、個人的にはむしろそれ以外のオケとの演奏にもっと魅力を感じています。今回のチェコ・フィルにしてもそうですが。(モーツァルトの演奏もベルリン・フィルとのものの方が気に入ってます。)以上、つたない感想を述べさせていただきました。
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オルフェオとベーム 投稿者:なべ  投稿日: 9月28日(日)17時56分18秒
 オルフェオレーベルの音は、どうもKUROさん仰る通り薄い感じがして、敬遠したくなります。最近ではやむを得ずクーベリックくらいは買いましたが、後はどうも買い控えています。ベームに関しては、かなりCDを買っているはずですが、あまり印象に残る演奏に出会えていない様です。何かお勧めがあれば教えて頂けるとありがたいのですが。彼の回想録を読んだ際に、ベームという人物に対する評価が非常に低下した事という原因もあるのですが…。

RE:ベームとシューリヒト 投稿者:なべ  投稿日: 9月28日(日)17時36分13秒
 許さんの文章というのは、斬新な(あるいはそう見える)切り口があって極めて読みやすい、読んでいて新しいものに出会った(ような)充腹感を覚えるものです。しかし、その切り口の画期性を強調する為に、ややもすれば交錯している関連要素を意図的に切り捨てて歯切れの良い断定的な結論を形作る事が少なくありません。
 専門の論文でこうした論法を採れば、「恣意的」であるとして排撃される危険もあり得ます。しかし、音楽評論の場合は感性の領域に属しますので、そうした非難を受ける心配は少ないということで、ややもすれば禁じ手的なこうしたやり方を少なからず用いている様です。ですから、こうした断定的な言い回しは自らの主張を効果的にするための意図的なモノでして、許さん自身が本心から「クナもシューリヒトもカラヤンも極論すれば同じ穴のむじなで、局所効果ねらいの典型的なオペラ指揮者」と単純な認識を持っている訳ではないと思います。「極論すれば」という一種の逃げ言葉は、そうした背景を物語っている訳です。

ベームとシューリヒト 投稿者:toshiharu  投稿日: 9月28日(日)17時06分11秒
洋泉社ムックの『名指揮者120人のコレを聴け!』を読んでいたら、許光俊という人がカール・ベームの項目に

(オペラ指揮者というのは)今この瞬間瞬間の音楽を立派に、性格に演奏するのが大事という方法論なのだ。(中略)そもそもクナもシューリヒトもカラヤンも極論すれば同じ穴のむじなで、局所効果ねらいの典型的なオペラ指揮者である(以下略)。

と書いていました。そういえば、シューリヒトは、細部の工夫が多かったなぁ、と改めて思いました。シューリヒトが細部にこだわる理由がわかったような気がしたのですが、ここでちょっと待って、と思いました。

シューリヒトはオペラのキャリアというのはあまりない人だと思うのですが、その人が「典型的なオペラ指揮者」というのは、ちょっと不思議にも思えます。シューリヒトは、コンサート指揮者ですが、実はオペラの方が好きだった、ということでしょうか。

また、スタジオ録音とライブとでは違った印象を与えますが、これは「典型的なオペラ指揮者」であったことも作用しているようにも思えます。

当たっているようにも、当たっていないようにも思える発言ですが、シューリヒトの一面をうまく言い当てているようでもあります。


ギレリスとベーム。 投稿者:KURO  投稿日: 9月27日(土)18時58分57秒
再び書き込みさせていただきます。ギレリスと言えば(私にとっては)ベートーヴェンということになります。それまでゼルキンの「熱情」や「月光」しか知らなかった学生時代、FMラジオでたまたま流れていたギレリスの「テンペスト」を聴いてから信奉者となりました。今回ザルツブルク音楽祭シリーズということでORFEOから発売されたギレリスとベーム/チェコ・フィルのコンビによる「皇帝」。若干オケが(音質のせいか?)薄く聴こえるきらいはあるものの、ピアノの音色はとても鮮明に蘇った感じです。同曲の演奏ではセル/クリーヴランドのものが定番ですが、個人的には(ライブの臨場感ということも大きな要因ですが)こちらのほうが優っていると思うのですが。しかも余白に第2楽章からのリハーサル付きですから、これはもうファンとしては堪らない!ベームの息遣いまでが直接こちらへ伝わって来るような感じがします。ORFEOレーベルは時として音質に失望させられることも少なくないのですが、今回はまずまずでした。(なお、同アルバムの2枚目におけるベーム/チェコ・フィルのチャイコフスキー第4番については文句なしの快演。ベームが燃えに燃えております。)
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続 カイルベルト 投稿者:なべ  投稿日: 9月27日(土)18時41分55秒
>バイエルン放送響とのブラームスの第2とモーツァルトの第40(ORFEOレーベル)
全く失念していました。確かに私の中でもこれがカイルベルトのNO1です。
とはいえ、本国では毎年何回かはこのレベルの演奏をしていたのでしょうが…
私はこの世代の指揮者に関してはクーベリックしか実演を聞いた事がない年齢ですが、
それにしてもカイルベルトは指揮者としては若死の部類といわざるを得ないでしょう。
実演を聞けなくて残念です。
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RE:カイルベルトのライブ。 投稿者:KURO  投稿日: 9月27日(土)16時57分59秒
最近、来日した時のライブCDが発売されたり、カイルベルトの人気が少しづつ高まってきているようですね。私の持っているCDでは(やはりライブなのですが)バイエルン放送響とのブラームスの第2とモーツァルトの第40(ORFEOレーベル)があります。いぶし銀のような演奏とはこのことを指すのでは・・・と思うほど素晴らしい内容でした。他には(以前アリアCDから入手した)バンベルク響とのマーラー:大地の歌(ヴンダーリッヒ、ディースカウ共演ということで購入したのですが)なども、なかなか渋いです。ですから、今回発売されたNHKライブのCDもぜひ聴いてみようと考えています。(ブルックナーの演奏もカイルベルトの指揮なら間違いなく素晴らしい演奏でしょうね。ぜひ聴いてみたいです。)
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RE:カイルベルトのブル6 投稿者:なべ  投稿日: 9月27日(土)09時01分28秒
 表題の演奏は国内CD化されています(が現在も入手できるかは分かりません)。颯爽とはしていますが、一方で内容も充分詰まっている良い演奏ですね。私はテルデック(=テレフンケン・AEG)から1000円シリーズでカイルベルトのCDがたくさん出た時に買い集めました。
 ただしテルデックはデジタル録音草創期に多くのマスターテープを16ビットコピーした上で廃棄したという話がありますので(全てではないそうですが)、CDを購入されても音質面で不満が生じる可能性はあります。また、録音データなどもこのシリーズの殆どのCDで「1960年代」などとあまりにいい加減な記述で済まされており、録音時の記録も全然保管されていない様が伺われました。これでは天国のカイルベルトも浮かばれないなあと、撫然とした事を覚えています。とはいえ、演奏はよいものです。最近出ているNHK音源のライブ録音(ブルックナーは含まれてないですが)ほどの熱っぽさはありませんが。
 ちなみに、このレーベルは事実上クラシック市場からの撤退を決めたそうで(アーノンクールのRCAへの移籍もその為と言われています)、今後の入手は難しくなるかも知れません。中古屋などで見つけたら早めに入手される事をお勧めします。
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ご質問:カイルベルトのブル6 投稿者:楽古堂  投稿日: 9月27日(土)08時39分05秒

皆様へ。小生、ブルックナーの交響曲第6番、ヨゼフ・カイルベルト指揮、ベルリン・フィルハーモニー(TELEFUNKEN SMT-1272)を愛聴してまいりました。特に第一楽章は、早いテンポで颯爽と演奏されます。心が晴れ晴れと広がって、浮き足立つようです。しかし、さすがに、レコードにくたびれが出てきました。CDで買い替えたいと思うのですが、現在、輸入盤等で入手可能でしょうか?

(無題) 投稿者:なべ  投稿日: 9月24日(水)20時55分25秒
>ビゼーの交響曲第1番
>ハイドンの交響曲集
いずれもチャーミングなビーチャムの名演奏ですね。特にビゼーなどはとろける程にチャーミングだと思います。ただ、ビーチャムはライブでは時たま嵐の様に荒れ狂う事もあって、その二面性に不思議さを感じます。スイスロマンド管弦楽団とのモーツァルト交響曲集など驚きの連続です。
>実際はずいぶんとワンマンな方
人に尊大な(あるいは近寄りがたい)印象を与える事の多かったフルトヴェングラーでさえ、ビーチャムの前では低姿勢に徹していたそうです。結果として、両者の関係が非常に良好であった事は言うまでもありません。フルトヴェングラーの秘書がユダヤ人であった事からドイツを追われた際にもビーチャムが雇用してあげたり、フルトベングラー死去の日の演奏会では追悼の為に彼の定番となっている演説を行ったそうです。

続・20世紀の偉大な指揮者たち。 投稿者:KURO  投稿日: 9月23日(火)19時07分10秒
なべ様へ。
私も今回のシリーズではビーチャムも購入しております。ただ、じっくり腰を据えて聴きたいと考えているので、まだ開封しておりません。内容が満足できるものとのこと、今から楽しみです。私とビーチャムとの出会いはビゼーの交響曲第1番(フランス国立放送とのもの)からでした。現在でも私のなかでは同曲中のベストです。(とにかく他の指揮者の演奏では何か満足できない。それほどに格調高くしかも美しくチャーミングな演奏!だと思います)この他では、ハイドンの交響曲集あたりでしょうか。とにかく名人芸といってよいのではないかと思います。まさに巨匠という名に相応しい指揮者なのでしょうね。(でも実際はずいぶんとワンマンな方だったとお聴きしておりますが)

20世紀の偉大な指揮者たちのシリーズの新譜 投稿者:なべ  投稿日: 9月23日(火)12時54分21秒
 今回の発売分で、私が買ったのはビーチャムだけです。これは未発表音源が多く含まれているという事で、ビーチャムファンの私としては先ず買い逃す訳にはいかないという思いで買った物です。内容もまあ満足できるものでした。
 最近はSACDの購入に凝っていまして、早くフルトヴェングラーとかシューリヒトといった人たちの音源も出ないかなあと期待しています。案外、トスカニーニなど従来の硬直した印象もある演奏が全然違って聞こえたりするかもしれません。とはいえ、最近のリマスタリング技術は、かつてとは別の意味で問題を含む場合もありますので、どう転ぶかは予断を許しませんが。

ワインガルトナーとロジンスキー。 投稿者:KURO  投稿日: 9月22日(月)21時14分12秒
皆さん、こんにちは。
「20世紀の偉大な指揮者たちのシリーズ」に新譜が出ました。今回はベーム、シェルヘン、ビーチャム、ロジンスキー、ワインガルトナーの5タイトル。いつも個人的に興味のある指揮者のみを購入していますが、この企画、「音質の向上したもの」と「選曲の優れたもの」に大きく区別できるような気がします。その意味ではワインガルトナーあたりが前者でロジンスキーが後者という感じを受けました。どちらも個性的な指揮者ですが(私個人としては)まとまった演奏を耳にするのは今回が初めてでした。ワインガルトナーについては、かねがね名前だけは知っておりましたが、なにしろ戦前に活躍された方のようなので優雅で気品のある指揮振りであったとの認識程度でしたが、どうしてどうして、今回の比較的聴きやすい音質によるベートーヴェン(ロンドン交響楽団)やブラームス(ロンドン・フィル)を聴く限り、なかなか豪快な面もあったようです。ロジンスキーについては、今までにも演奏を耳にしたことはあっても、さほど関心を引かなかったのですが、
今回の好企画によってこの指揮者への評価を改めさせられました。ロイヤル・フィルとのR=コルサコフ「ロシアの復活祭」序曲(とってもキレの良い演奏!)やニューヨーク・フィルとのラフマニノフ交響曲第2番(深いロマンチシズムを湛えた秀演だと思います)、コロンビア交響楽団とのロッシーニ「ウィリアム・テル」序曲(まさに爆演!!)それからシカゴ交響楽団との「トリスタンとイゾルデ」(ストレートで素朴な表現。)、フィルハーモニア管弦楽団とのR.シュトラウス交響詩「死と変容」などなど。どの演奏もロジンスキーの特質をうまく伝えているかと思われます。以上、つたない感想まで。

音楽的な咀嚼力ということ。 投稿者:楽古堂  投稿日: 9月21日(日)08時49分36秒
KURO様へ。なべ様へ。「咀嚼力」などという曖昧な言葉を使用したために、音楽を「消化」するとは、どういうことかという難しい問題を突き付けた、格好になってしまいました。失礼しました。単に、音楽的な興味と関心の強さぐらいの意味でした。小生も、あそこにおいしいものがあると聞けば、行ってみたくなる方なのです。ことクラシック音楽に対してはシューリヒトという、小生の味覚にとって最高のシェフに出会ってしまったために、生来の好奇心が発動しなくなってしまいました。

バイロイト1954 投稿者:なべ  投稿日: 9月19日(金)19時51分23秒
フルトヴェングラー指揮の第九の中でも最高の名演として知られる1951年度の
再開バイロイト音楽祭オープニングで演奏された第九は既にEMIから発売されています。
これに加えて、これまでカナダの会社からエアチェックとおぼしき劣悪な音質で
発売されていたに過ぎない1954年度の第九がMusic & Artsから発売されるとの事です。

色々 投稿者:なべ  投稿日: 9月17日(水)01時49分55秒
>音楽的な咀嚼力には感嘆しています。 何かコツがありますか?
私の場合は、他の方ほどには咀嚼していない場合が少なくないかもしれません。
自分の専門の研究スタイルに関しては「深く狭く」なのですが、
どうも趣味はあっちにも手を出し、こっちにも… という感じがあります。
クラシック音楽の鑑賞は一種非日常的な「儀式」であるという味わい方をするためには
聴く機会を限って、その際には意識を最大限集中して聴くというスタイルを採る楽古堂さまの方が、良い聴き方ではないかとも思うこの頃です。

KUROさまへ。
>ハーディング…にウィーン・フィルかベルリン・フィルを思いっきり振らせて見たい
こうした思いを、世界で一番強く持っているのはハーディングの後援者であるラトルだと思います。ラトルがハーディングにBPOを振らせないのは意図的なものがあるはずです。彼はまた27歳ですから、ラトルは慎重に来る時を待っているのでしょう。とはいえ、フルトベングラーは36歳でBPOとゲヴァントハウス管の首席指揮者に就任し、41歳でVPOの首席指揮者も兼任していますので、47歳でBPOシェフになったラトルよりも若くして重責を担った人もおります。両人とも、フルトベングラーを神の様に崇拝している事を踏まえると、ハーディングのBPO初指揮はフルトベングラーのBPO初指揮である31歳頃を基準に予定されているのではないかと、根拠のない推測をしているところです。

RE:カール・リヒターのブルックナー  投稿者:KURO  投稿日: 9月16日(火)19時35分12秒
楽古堂様へ。とんでもありません、「音楽的な咀嚼力」なんて!むしろ丸呑みしてしまうことが多いので、もっとゆっくり味わっていかねばと常々思っているくらいです。ところでリヒターは私も大好きな演奏家ですが、昨年モーツァルトの「レクイエム」を聴いてからは、バッハ以外の演奏においても並々ならぬ才能を発揮していたことを改めて認識させられました。もっと長生きしてもらってモーツァルト交響曲全集などを完成させてくれていれば、間違いなく「レコ芸」特選だったことでしょうね(笑)。
なべ様へ。ハーディングの演奏会、よかったでしょうね(羨ましいです)。昨年、CDでブラームスの交響曲を聴いてから、その深い深い解釈にすっかり感心いたしました。まだ若いのに類まれな才能があると思います。この指揮者にウィーン・フィルかベルリン・フィルを思いっきり振らせて見たいと思うのは私だけでしょうか。

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